梅干の歴史
■飛鳥時代
*中国・唐の時代、杜甫や李白が梅にちなんだ漢詩を詠んでおり、別名「梅の時代」と呼ばれる。
*和歌山県海草郡浜中荘丁(よぼろ)村は、梅の名所として「紀伊名所図会」に存在し、丁(よぼろ)は「養老梅」語源となっている。
■奈良時代
*日本最古の歌集「万葉集」や、日本最古の漢詩集「懐風藻(かいふうそう)」で梅の歌が詠まれており、中国から伝来した梅の影響を色濃く受けていたという印象がある。
■平安時代
*菅原道真が「東風吹かば 匂ひおこせよ 梅の花 あるじなしとて 春を忘れそ」と詠う。
これが、飛梅伝説を生みました。
*「本草和名(ほんそうわみょう)」に、ウメが『牟女(ムメ)』と記載。
*「和名抄(わみょうしょう)」にウメが『宇女(ウメ)』と記載。
■鎌倉時代
*この頃の僧は、茶菓子として梅干を共した。
■室町時代
*戦国大名、黒田如水(くろだじょすい)は「男の子が生まれたら梅三株を植えよ」とのお触れを家臣たちに出す。
■江戸時代
*京都にある鹿苑寺(ろくおんじ)の鳳林和尚の日記に「紅色の梅干が珍しい」と書き記される。
梅干にシソが使用され始めたとされています。
*「本朝食鑑(ほんちょうしょっかん)」に、シソ染め梅干が珍重品であると記載
*小田原城城主、大久保忠真は、梅の実を保存食にする目的で、家臣たちに梅の木を植える。
*水戸藩主の徳川斉昭(とくがわなりあき)が「種梅記(しゅばいき)」に、梅への想いを記載。
*埴田(はねた・現みなべ町)の浜口松次郎が販売用の梅干の製造を始める。
■明治時代
*内本幸二郎と内中為七が晩稲(おしね)地区を開墾し梅を植える。
これが梅畑経営の始まりとなります。
*日高郡や有田郡で梅栽培に一般に普及し始める。
*上南部村晩稲に住む、高田貞楠が内中梅の実生苗を植栽する。
*尋常小学校の国語の教科書に「梅干の歌」が記載される。
■大正
*南部町・田辺町(現田辺市)にて梅干商工会が組織される。
■昭和
*上南部村の小山貞一が高田貞楠から穂木を譲り受ける。
これが南高梅栽培の第一歩。
*軍需用の梅干の需要が拡大する。
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●梅と文学の関係
万葉集では、桜よりも圧倒的に梅を詠んだ歌が多く、これが指し示すものは以下のとおりではないでしょうか。
「梅が中国から渡来した、珍しくそれでいて美しい花であったこと」
「春の訪れを知らせる花として、季節の移り変わりを称える気持ちを託しやすかった」
大自然の中で梅の花を愛し、梅を表現するに至っては明るく新鮮で、万葉の人々の中では清らかを象徴するものだったのでしょう。
王朝の時代、万葉の頃より梅の愛で方に変化がでてきます。
その可憐な姿を愛でるものから、小さな花々から溢れ出るような香りを楽しむものへと変っていったのです。
それを示すように、古今和歌集からの歌集からは、花ではなく香りを詠んだ歌ばかりになります。
万葉で象徴とされた清らかさは、まるで移り香のような耽美で雅やかな表現方法へと形を変えました。
中世となると、梅は昔を懐かしむ花と表現されるようになり、孤独を象徴する歌に詠まれるようになります。
和歌として詠まれる花が、梅から桜にとって変ったのもこの頃からです。
近世ともなると、松尾芭蕉の手によって、梅の花は新鮮な輝きを持って生まれ変わることとなります。
その後、芭蕉から与謝蕪村に受け継がれ、彼らによって再発見された、ロマンティシズムとうまく絡みあい生への喜びを示す象徴として、江戸など都会人たちに受け取られていたようです。
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